彼女の座標
いまこの時点での韓国舞踊界とパクキョンランの立ち位置
李 美 喜
ある日の夕刻のこと、わたしは孝昌洞の彼女のスタジオの前にいた。まだ移転して半年たらずのスタジオは、比較的新しい高層マンションのそばの、やはり新しい四角い建物の3階にある。1階と2階は不動産だが、上のフロアは詩調を教えるやはり伝統芸能のスタジオであることが彼女は入居当初かなり気に入っているようだった。約束の時間に十分間に合っていることを確認して、わたしは階段を上り始めた。伝統を意識した雅な文字体で書かれた、看板に明かりが灯る頃だった。
その週末は、普段彼女が釜山で教えているお弟子さんたちがソウルにやってきて一泊二日の特別授業が行なわれていることは知っていた。レッスンが終わる時間に合わせて約束をしていたのだが、薄暗い階段を上るにつれなんだか、どうやらいつもと雰囲気が違う。いつもは舞踊の練習曲、つまりオーディオでかける伝統音楽が漏れ聞こえているか、まったく静かな場合は彼女はひとりで床の雑巾がけをしていたりする。わたしは耳を潜めて、今日がそのどちらなのかを前もって判断するのであったが…。何かが聞こえる、だがクッコリ長短のシナウィではない。遠慮なく開け放したドアから聞こえてくるのはポンチャック、演歌歌謡だった。
中に入ると阿鼻叫喚図だった。中年をゆうに超える弟子の女性たちと彼女がディスコ入れ子状態で踊り狂っていたのだ。呆気にとられていると若いお弟子さんが訳を話してくれた。レッスンが終わり食事をして、腹ごなしに踊っていたところだったのだという。彼女はDJよろしく次々と曲をかえては同世代の、もしくは彼女よりずっと年上に見える教え子たちをヒートアップさせるのに夢中だ。妖しいダンスはやがて、群舞のエアロビクスへと変わっていった。各々踊っていた女性たち、先生の後ろに列をつくっては、「さあ!さあ!」という彼女の掛け声にあわせて額に汗を浮かべている。小さな体躯から次々と繰り出されるアクションとキレのいい一連の動作、迷いのない振り付け。彼女のエアロビがあまりに堂に入っているのでもう一度訊ねてみた。
「先生はね、伝統舞踊だけで生計を維持するのが難しかった頃はエアロビの講師もやっていたの」。今でも若い舞踊家たちがヨガやピラティスなどの講師をバイト感覚でするのはよくあることだが、幼い頃から正統派の舞踊一筋のお姫さまのように見えていた彼女に、そんな過去があったとは知らなかった。正直面食らった。が同時に、もしかしたら彼女はその過去を恥ずかしがるかもしれないが、わたしが彼女に対して抱いていた或るひとつの憶測が確かなものになった瞬間でもあった。彼女は、身体とは何か、を知っている。
■ x=身体性
わたしは殆どの韓国舞踊家たちと違って、幼い頃から踊りを学んできたのではなかった。オーケストラやインドネシアなどの民族音楽の楽器に触れるうち、楽器を演奏する音楽家の姿勢、それも精神的な意味での姿勢ではなく肉体的な姿勢、動作が気になり始めた。マリンバ奏者の目にも留まらぬ素早いスティックさばきから生まれるアルペジオの連続や、ガムラン奏者がちょっとした音の隙間で空いた手を空中で揺らす動きなど、一流の音楽家たちの動きや身体のブレのなさは一流の舞踊家にも匹敵すると考えていたのだ。やがて演奏することと踊ることは非だが似るもの、音楽を奏でることと踊ることの原初の目的やその根本は同じなのではないか、という予感を抱くようになったのだった。特に韓国音楽をやっていると、楽師は踊りを理解していなければならない、亦逆も然り、ということをよく耳にした。その言葉を頭では理解できるような気がした。だが頭を超えて身体で理解することとは何か。つまり音楽にも踊りにも流暢になることは可能だろうか。例えば、ソンバンソルチャングの名人などのように。ミュージシャンの身体がダンサーの身体にどれだけ近づけるのだろうか。その二つのからだはまったく別のものなのか?もっと視野を広げて、あるからだを韓国舞踊の身体、バリ舞踊の身体と分け隔てるものとは一体何なのか。身体性に近づくためのその実験を自ら試してみたくなったとき、わたしは最早居てもたってもいられなくなって、チャングチェを置いてポソンを履いていた。
しかし韓国の伝統舞踊家たちのほとんどは、身体性に対してあまり意識的ではないようだった。年配の舞踊家には太っている人も多いことは意外だった。跳躍や俊敏でアクロバティックな動きがないせいか、なにか特別な身体能力を兼ね揃えているようにも見えない。韓国舞踊は気の流れや呼吸、という言葉でよく説明されるように、踊りの動きそのものを概念で言い表すことが多く、筋肉がどう関節がどうという言い方をまずしない。バレエやコンテンポラリーダンスの踊り手たちのように練習前後に入念なストレッチをするなどということも見かけない。その理由のひとつには、韓国舞踊家たちは幼い頃から学生時代を終えるまで終始一貫して伝統舞踊科を卒業し、以降も伝統舞踊のみを続けるいわばエリートたちであることも関連しているだろう。伝統舞踊に必要な身体というのが、あらかじめ出来上がっているということだ。しかしそれは一人のダンサーとしてはどうなのだろう。韓国の伝統舞踊手たちはあまりに自分の身体性について無自覚なのではないだろうか、という不満がいつも頭の片隅どこかにあった。
彼女は踊る身体について、言葉で説明するのが巧みだ。ひじの関節の角度について、腹筋の使い方について、彼女なりのオリジナルな説明理論というのを確固している。その言葉は、彼女がどれだけたくさんの教える時間を過ごしてきたか、また彼女がひとり練習室の鏡の前でどれだけ孤独な時間を過ごしてきたかをこっそりと打ち明けているようなものだ。エアロビクスを教えていたと聞くと、他の舞踊家たちなら卒倒してしまうだろう。「バレエや体操、他のダンスやスポーツをすると、韓国舞踊に不必要な筋肉がついてしまう。韓国舞踊以外の身体を使うこと全般を避けるべきである」というのはこの世界の不問律なのだが、そういう荒唐無稽なことを言ってはばからない人に彼女の踊りを見てもらいたい。そもそも身体とはなにか、という問いを投げかけるのに伝統舞踊、エアロビクスというジャンルは不問なのではないだろうか。むしろジャンルを超えた一個のからだとしての身体性をより深く追求したことがある点で、他の伝統舞踊家たちよりも経験値は抜きん出ているかもしれないとすら思う。華奢な体躯を見れば誰でもわかると思うが、徹底的に抑制された身体を持っている。それは彼女が踊りのために身体を作ってきた、歴史の証明だ。
身体の本質に触れれば、バリ舞踊も韓国舞踊も、さほど差異はないのではないか、と思うことがあった。それは例えば、ある和音にもう一音加えるとジャズ風になったり、抜くと古典的になったりする程度の差なのではないか、ということだ。振り付け方の美学や音楽との約束が少々違うだけで、結局ダンサーに必要な身体性への目覚めという点では踊りという行為はなにかひとつのものに集約されてもいいのではないか、という推測だ。その推理が彼女によってひとつの臨床例を得たというような、そんな気分だった。多くの伝統舞踊家たちがあまりにも当たり前に、なんとなく享受している身体感覚を、彼女は非常に自覚的に意識している。それは彼女の運動量の多さ、首や肩の線の見せ方などに顕著に現れている。鋭い計算を可能にする身体能力を、彼女は持っている。身体に対する研究、さまざまな方法で実際に身体を動かしてきた時間が故の技術だと断言できるだろう。
■ y=独創性
彼女の踊りには、しばしばたっぷりのサービス精神が表れる。観客と踊り手という垣根を越え、客席にアピールしたり、時には観客と手をとって踊ってみたり、という舞台の上から降りてきてのサービスを惜しまない。エアロビクスも、教え子たちに楽しんでもらいたいという彼女のサービス精神のあらわれだったのだろう。もっと身体を動かしてもらいたい、日ごろのストレスを吹き飛ばしてもらいたい。楽しく遊んでもらいたい。レッスンだからといって手を抜いたりリハーサルだからといって加減をして踊ることを許さない、練習と舞台とを区別しない舞踊家としての気持ちが、そんな形で表出したのではなかったか。遊びの心を伝えたいという思い。遊びとは、必ずしもお金を使ったり、酒を酌み交わすことだけではない、風流を楽しむ粋を解する心のことを指すことを、伝統舞踊を志向する者同士、風流を酌み交わそうではないか。という彼女からのメッセージが読み取られる。
彼女は風流の場づくり、風流を楽しむということに一層こだわりがあるように見られる。何故ならば彼女の踊り自体が、風流の場から生まれたものであるからだ。教坊舞とはつまり、芸妓の踊り、芸妓が風流を解する者たちの集いの場所で、踊っていた舞が継承されているものだ。しばしば作品の中でもかつての風流の場の再現、教坊舞の根源への問いかけが見られる。舞台の上を風流房と見立てて書道家とのセッション、民謡とのコラボレーション、舞台上で車座に座った客たちが順番に踊りを披露していくように見立てた作り、などがそうだ。かつての教坊とは何だったか、という想像をかき立ててくれると共に、ひとつの作品を毎回踊り続ける伝統を見守る観客たちへの、飽きさせないためのサービスであったことは間違いない。
作品数が多くない伝統舞踊は、ともすれば毎公演が同じことの繰り返しだ。ひとりで踊るのか、弟子が踊るのか、ソロなのか、群舞なのか。CDか、生演奏か。サルプリと、僧舞、チャングチュム、太平舞、いくつかのレパートリーを繰り返すばかりだ。例えばバリ舞踊と比べて見ると、
バリ舞踊には女舞、中世的な舞、男舞というのがある。中性的な舞には女性が男装をして踊るものというトランスジェンダー的な設定があり、これは女性が踊るものである。寺院で奉納の際に踊られるものだけでなく、娯楽目的のもの、舞踊劇形式になっていて歌いながら踊るものなど、形式の数も作品の数も大変多い。村で、また学校で今なお新作が作り続けられていおり新作も人気があれば、瞬く間にバリ全土に広がって古典作品と同じように踊られるようになる。
そんな中で彼女の公演には、飽きさせないための装置が非常に豊かだ。燕山君の寵愛を受けたジャン・ノクス、稀代の芸妓として歴史に名を残すファン・ジニをモチーフにした舞踊劇への挑戦はその最たるものだ。観客に新鮮なステージを見せたい、という思いと共に教坊舞がこの世に存在する理由に対する解釈を解りやすく切り取ってみたい、という熱意が感じられる。作品の中に出てくるのはサルプリ、教坊舞など古典作品で、踊りに関しては伝統そのものであった。いたずらに伝統をもとに現代的な創作をしたり、捏造したりなどしなくても伝統そのままで本来のすばらしさを現代に伝えることは出来る、という姿勢は、創作舞踊に傾きがちな韓国の舞踊界で異色の光を放っている。
こんなエピソードもある。流派の違う現代の名舞踊家8人の作品を一度に鑑賞できる「八舞伝」(2009年・KOUS)では五日間にわたって全8回の公演がなされたのだが、彼女は舞台に立つ度に衣装を変えた、つまり八着の衣装を用意したのだった。舞踊家として毎回新鮮な心持ちで舞台に挑みたいという意欲と、すべての舞台を見に来るマニアックな観客のためのサービス精神が現れた例だ。また、こんなことも言っていた「かつての芸妓たちが毎日同じ衣装で踊っていたかしら」。
伝統をいかに大衆化するのか、というのも彼女の舞台からしばしば読み取れるテーマでもある。
伝統を過去のある時点での化石にしてしまうのではなく、今なお息づき人々から愛される伝統の継承の仕方とは何か、という試みだ。伝統芸能の大衆化、現代化というときにすぐに想像されるのは、透けた素材のモダンなチマチョゴリを着た舞踊手たちが飛んだり跳ねたり、パンソリをバックに男性ダンサーが床を転げ回ったり、という方向性に傾きがちなのだが、彼女の試みはかなり赴きが違う。先に述べた舞踊劇形式の公演もそうだが、踊りそのものは決して変えない。見せ方を工夫するだけで伝統舞踊の可能性は無限に広がるのだ、ということを彼女は示したいのだろう。
音楽についても彼女の独特な思想が反映されている。長い時間培われた伝統芸能そのものの力を存分に発揮できるように、生伴奏にこだわる彼女だが、コムンゴ一台の独奏に合わせて踊ったり、ときには歌謡曲を作品に使ったりもする。歌謡曲の登用は伝統から遠ざかった大衆へのひとつのアプローチだ。伝統舞踊界の中ではひときわ毛色の異なった手法であり、賛否両論も大きいだろうが、彼女のこだわりも垣間見える。歌謡曲だからといって勿論ポップスやロックを使うのではない。彼女が見つめているのは今も昔も変わらない、韓国人を韓国人たらしめる精神世界の原点-情緒。韓国的な情緒を感じさせてくれる現代の音楽を使って、古典を親近感あるものとしてよみがえらせようとする挑戦を試みる果敢な姿だ。
そのように、彼女の作品づくりには、「これはこういうもの」「これは以前からこうして来た不変のもの」という概念がない。固定概念や、常識と信じて疑わなかった事柄に対する姿勢が非常に柔軟なのだ。あの日のエアロビクスも、彼女らしいやわらかい発想に基づいたものだったのだろう。かつての風流の場には、酒と詩と古典舞踊があった。現代の風流の場なら、歌謡曲とエアロビクスがあってもいいんじゃない?そんな茶目っ気の効いた提案だったのではなかっただろうか。
■ z=冒険心
なによりも彼女の舞踊を唯一無二なものに特徴づけていることといえば、流派がないということだろう。韓国舞踊の世界において、流派への所属は絶対だ。よく目にするのはイ・メバン流、カン・ソンヨン流、ハン・ヨンスク流あたりではないだろうか。理由はいたって簡単で、この三つの流派の「サルプリ」「僧舞」「太平舞」三つの作品が重要無形文化財の指定を受けているからだ。からくりはこうだ。それらの流派の文化財該当作品を何年か学んでいると、免許皆伝つまり資格を取ることが出来る。資格至上主義はなにもMBAや会計、経済、法律などの分野に限った話ではなく社会全体の傾向であるから、舞踊家たちも肩書きを望むのは同じところである。そうやってこの三つの流派の三つの作品に、舞踊家たちは集中するのだ。
彼女ももちろん、かつて師匠たちの下で学んでいた頃にそれらの流派に接したことがないわけではない。学生時代を一貫して舞踊科で過ごしていたから、授業ではそれらの作品を長い間踊っていたであろうことは間違いないし、コンクールに出場していた頃はイ・メバン流サルプリを踊っていたこともあった。コンクールに出場する際の作品は以上の三つのどれかでなければならないというのは暗黙の了解であり、舞踊科入試のときにはそれを明記して指示することがほとんどだ。先にも書いた通り、韓国舞踊のレパートリーはいつの間にか非常に貧弱なものになってしまった。いつしか、そのような流派という大きな力の庇護から離れてオリジナルな踊りを求めるようになったところに、彼女の彼女たる所以がある。
オリジナルといえども、彼女の独創的なという意味よりは、原始的なという意味の方が合っている気がするのは、彼女が常に「教坊舞とは何だったのか」という探求を続けているからだ。もしかしたら彼女は、流派から疎外された踊りたちの復活を目論んでいるといっても過言ではないかもしれない。舞踊界の視線が三つの作品に集中するほどに、それ意外の作品が関心を引かなくなっていったことは否めない。キム・スクジャ流やイ・ドンアン流などかつての名人たちの名前を冠した流派ももちろん存在するが、圧倒的に少数なのが現実だ。カウンターカルチャー的に人気を集める地方のサルプリ(トルクボル・サルプリや湖南サルプリなど)もあるが、やはり地方の行政地区ごとに定めた文化財に指定されている作品である。いくつかの代表的なレパートリーに飽き足らない若手たちが、踊りの原点を探して昔の作品を復刻している例もある。チョ・ガムニョ流僧舞がそうだ。チョ・ガムニョは若い時分に芸妓であった。芸妓を辞めて数十年踊りから遠ざかっていたが、近年請われて度々舞台に立っている。そのような踊りを研究することは、およそ50年程前の舞台芸術化される以前の伝統舞踊はどのようなものであったかを分析するには役に立つだろうが、技巧が発達した現代の舞台で公演するには、芸術性においてかなり物足りない印象を与えるのも事実だ。
そんな中にあって人気を集めながらも、主流ではなく独自の路線を歩く彼女の姿は、前例がないことを避け、師匠の言い伝えを忠実に守り、肩書きや社会的地位に弱い、そんな伝統芸能の世界では非常に異質な存在である。だからこれまでの道のりも決して平たんではなかっただろう。ただでさえ厳しい伝統芸能の世界で、誰も歩まなかった道を歩くというのはどれだけの覚悟を必要としたことが解らない。舞踊家の道というのはおよそ、舞踊団に所属するのか、師匠の下で研鑽を積むのか、博士号を取得して学校教授を目指すのか、くらいに集約されるのだが、彼女の場合はそのどれにも当てはまらない。それでエアロビクスの講師をやっていたことも、すんなりと納得がいったのだった。
彼女ほど踊り手らしい踊り手はいないのではないか。まず、公演の数の多さに驚く。請われて踊る、というのは踊り手冥利に尽きるし、ギャランティも発生するわけだから多くなくては困る。実際に外部の企画公演への出演は多い。だが、驚くべきなのは彼女自身が企画する、自主公演の多さだ。ソウル、釜山などを中心に全国規模でおよど年に2,3回のペースで独自公演を行っている。それも、毎回趣向を変えながら-これはレパートリーが少なく、公演の形式事体が形骸化している伝統芸能の世界では本当に珍しいことだ。前述の舞踊劇や、歌謡曲や書道など異なるジャンルと舞踊の融合、彼女は「初めてのこと」にとり組むことに非常に旺盛で、果敢だ。
記憶に新しいのは2010年に大阪で活躍する前衛身体表現の劇団である「態変」との共同作業だ。
第二次大戦中、日本の植民地化にあった朝鮮で独立運動の士であったファン・ウンドとその妻で伝統舞踊の名手であったキム・ノッチュを題材にとったストーリーは彼女をすぐに虜にした。
韓国初演に縁あって参加した彼女は、すぐに伝統音楽の生演奏をバックに、自らも出演しての再演を申し込んだ。相手は言葉の通じない前衛パフォーマンスアート集団。作品は韓国伝統をテーマにはしているが、伝統芸能への理解はどう見ても乏しかった。それが彼女には残念で、もっと彼らに伝統芸能の真髄を知ってほしい、そうすればもっとすばらしい作品になるのに、という思いが強かったのだろう。伝統を愛する者として放っておけなかったのではないか。それにしても彼女の思い切りと行動力には舌を巻く。態変とその作品に、出会ったその日にはもうバージョンアップしての再演の提案をしていたのだから。
印象に残っている中では、固城五広大に登場する踊りのひとつであるムンドゥンイ・プクチュムを彼女が自らのレパートリー化した作品が強烈だ。国家重要無形文化財7号にも指定されている 固城五広大は、慶南の海沿いの街固城で古くより伝わる仮面をつけた男たちの舞踊である。
その中のムンドゥンイ・プクチュムとは、ハンセン病患者が小さい太鼓を手に持って踊る作品だ。彼女の生まれが固城で、外祖父が五広大の名人であったこととは無関係ではないだろう。
実際に固城五広大の面々たちと共にしてきた公演の数は大変多い。だが、美しい女性の媚態を表現する教坊舞の専門である彼女が、お笑いやコメディ的な文脈で踊られる病身チュムに自ら挑戦したのには何か特別な思いがあったはずだ。
■ 突き抜ける放物線
伝統舞踊という枠組みを超えたい、伝統と外の世界の垣根を取り払ってみたい。そうしながら何度でも伝統に立ち返る。彼女の作品づくりからはいつもそのような思いが伝わってくる。流派はなんだって韓国舞踊であることは同じ、ただひたすらに「巧い」「上手い」踊りを目指すのみであるというストイックさ。前衛でも古典でも、身体の真実を追及する心は同じ。男踊りも女舞も、教坊の中での踊りもマダンで踊られる汗臭い踊りも、風流の精神から生まれた同じ踊り。その信念を公演やレッスンを通して実現させていく行動力と、前代未聞の挑戦を次々と成し遂げていく冒険心。だが、彼女ならあっさりとこう言うに違いない。伝統の世界で新しいことをやっているから前代未聞のように思われるだけ。広く芸術の世界を見れば、そんなこともたいした問題ではないのだ、と。
果敢な挑戦を続けているわりに、本人はいつも涼しそうな顔なのだ。その表情が、彼女の舞踊への探求がまだまだ止どまることを知らないのを物語っている。小さな体躯とほとばしるエネルギー、大胆不敵な行動力とその舞の繊細さ、そのギャップに魅せられて、今日も孝昌洞のスタジオに人々が足を運んでいることだろう。
국 문 초 록
그녀의 좌표 –지금 이 시점에서의 한국무용계와 박경랑의 위치
저자는 2006년부터 서울에 살면서 전통예술, 특히 연희와 민속무용에 대해서 공부하고 있다.
박경랑선생님과는 수많은 공연을 보고 공연장을 돌아다니다가 아는 사이가 되었다. 어떤 공연장에 가도 박경랑선생님은 무대위에 항상 계셨다. 그 만큼 공연이 많은 실력으로 인정은 받은 인기 무용수이시다.
저자는 학교에서 연희를 배우면서 동료인 전통예술을 지향하는 젊은이들이 감각을 알게되었지만 그 것은 알면 알수록 실망스러웠다. 그들은 전통에 워한 경의나 탐구심을 품지도 않고 매일 사물놀이를 가지고 용돈을 벌으면서 술을 마시며 재미있게 사는 것에 밖에 관심이 없었다. 편한 친구들과 팀을 만들어 현대인의 감각에 맞게 재구성한 전통연희 공연을 펼치며 스타가 되기를 꿈 꾸고 있었다. 하지만 그 것은 조금 희한하고 복잡한 가락을 사용한 사물놀이일 뿐이었거나 단순한 코메디 연극에 탈춤이나 상모를 돌리는 장면이 나올 뿐인 깊이가 없는 작품들이 대부분이었다.
무용과 접하면서 무용가들의 정신세계에 지쳐버렸다. 그녀들은 이쁘게 꾸미고 좋은 차를 타고 다니는것이 지상의 기쁨이라고 생각하여 거짓말을 하고 어떻게 하면 선생님이나 선배한테 잘 보일까에 무척 신경을 많이 쓴다. 어릴때부터 춤을 추워 춤밖에 모르는데 남다른 자존심을 갖고 있다. 그리고 너무나 술을 좋아하고 연습에 개을리며 정신적으로 독립되지 못하고 항상 누군가에게 기대고 있었다. 예를 들면 공연 하나하나를 소중히 여기고 연습을 절처히 하고 몸을 아끼며 스트레칭을 꾸준히 하고, 쓸떼없는 남의 소문이나 욕을 안하고 삶에 열정적이고 춤에 대해서 진지하고, 사람으로써 독립적이고 그러면서도 사람다운 맛도 있는 그런 제가 꿈에 꾸던 무용가는 이제 한국에는 찾을 수 없을 것인가.
박경랑선생님은 여러가지로 한국 전통무용계에서 독특한 무용가다. 수업중에는 열정적이고 대충 춤 출줄 모르는 모습은 아름답다. 샘물 처럼 넘치는 새로운 작품 이미지를 들면 언제나 놀리게 된다. 류파에 속하지 않는 것은 이 세상에서는 아주 힘겹고 고독한 선택이지만 모둔 일을 해내고 있다. 그리고 춤 실력으로 관객을 압도한다. 가끔 술에 춰하여 눈가를 붉게 물드린 모습을 보면 사랑스럽기도 한다.
이 에세이에서는 박경랑선생님의 특칭을 x축을 신체성, y축을 독창성, z축을 모험정신에 설정하고 분석을 해보았다. 선생님이 한국무용계에서 어떠한 위치에 있는지가 죄표위에 입체적으로 떠오를것이다. 일상 생활속에서 또한 무대위에 펼치는 작품을 통해서 박경랑선생님의 매력과 그 예술세계를 살펴본다.
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